長谷整形外科クリニック
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記事一覧

読書日誌その25

狗賓童子の島
著者:飯嶋和一
出版社: 小学館 (2015/1/28)

行きつけの書店に入って新刊の棚をチェックする。その作家の名を見つけるのは数年に一度である。今回は六年振りであった。最新作でも決して平積みになることはない。棚の隅に一冊だけ慎ましげに立て並べてあって、あやうく見落としそうになる。その作家の新作と分かれば、値段も帯の宣伝文句も確認せず、手に取ってレジへ直行する。飯嶋和一は、そんな本の買い方をさせてくれる数少ない作家の一人である。
前作で島原の乱を描き、今回は大塩平八郎の乱から隠岐騒動に至るまでを描いている。理不尽な体制側に抑圧された民衆がついに暴発する筋立てで、本来なら劇的に展開できる素材のはずだが、筆致は前回にも増して抑制が利いている。方々の書評でも指摘されている通り、入念な文献精読と多年の現地取材によって豊穣の極みにある思索の然らしむる境地なのだろう。それだけに、ともすれば淡々とした描写の中で、登場人物が時に漏らす言葉の気高さにはっと心を打たれる。「大昔から、お前の家を、庄屋職を、代々継いできた人は、いざという時には誰かが素知らぬ顔で助けにくる人だった。運だの不運だのというが、結局人に恵まれるだけの資質を持つ人間かどうか、確かめていたのはそれだけのことだ」「何をやるにしろ、結局問われるのはその人でしょう?漢方医の誹謗中傷によって蘭方医が信用を失った?そうじゃない。誹謗されて信用を失う程度の人たちだっただけのことですよ」
そんな文章に酔って至福の一週間を過ごした訳だが、体制と民衆の対立を描く内容であるから、読んでいるとどうしても現代社会に思いを馳せて対比してしまう。過去も現代も、いつの世にも体制側は、つまり為政者と役人は、自分の行為に責任を持つことはない。しかし民衆は彼らの要求を満たさなければならなず、さもなくば蜂起を余儀なくされる。私は過激主義者でも無政府主義者でもないが、この図式は絶望的なまでに歴史を貫いて現代に生きていると改めて気付かされる。


  • 2015年04月29日(水)14時44分

読書日誌その24

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人間、やっぱり情でんなぁ
著者:竹本 住大夫 , 樋渡 優子
出版社:文藝春秋 (2014/10/14)

 奥州安達原を国立文楽劇場で観た。住大夫師匠のいない床はなんとも寂しいが、ご自身で決められた引き際であるから、我々観客はそれをよしとせねばならない。
 私はいきなり文楽の舞台を観てすぐに理解できるほどの素養がないため、大抵なにがしか予習をしていく。最近では床本をダウンロードして読むことができて便利至極であるが、それを読んでいる段階でいつも思うのは、「このストーリーではなんぼなんでも無理があるやろう」ということである。なにせやたらと人が殺される。さらにその殺人の動機も殺害方法も理解しがたい。今回の奥州安達原では、老女が胎児の生き血がいると言って妊婦を殺害し、その後でそれが実は自分の娘であることに気づくとか、前回の菅原伝授手習鏡では、主君の子の身代わりに、その日に入門したよく似た子の首を打って忠義立てするとか、現代の映画の脚本家が書いたら、まず一発で没になるであろう。漫才なら「そんな奴おらへんやろ」である。
 さて当日、そんな違和感を抱きながら文楽劇場の席に座る。床が回って太夫と三味線が現れる。太棹の最初の一音が劇場に響き、正面に現れた人形があまりにも繊細な動きを始める。太夫が節を付けて浄瑠璃を語りだし、三者がお互いを一切見ないのに、寸分のくるいもなく舞台が進行していく。しばらくすると驚くことに、あれだけ無理だと思っていたストーリーが、太夫の口から圧倒的な説得力を持って迫ってくる。切場に差し掛かる頃には、完全に納得してしまって、人形に感情移入すらしてしまう。けだし昔の浄瑠璃作者は、ここまでの効果を計算しきって、あの脚本を仕上げていたのであろう。住大夫師匠が「浄瑠璃ってええもんでっせ、ようできてまっせ」と言われた、その一端が分かったように思えて劇場を出る。
 私の文楽理解は未だこの程度なのだが、それでも46歳になって、少し分かるようになった。文楽は大人の趣味である。子供には分からない。文楽の補助金を切って、一方でカジノを誘致するというがごとき、大人なら一顧するだに値せぬ子供の戯れ言にすぎない。そんなことを言う政治家がいて、それが首長だというところに、今の日本の根深い問題があると思う。


  • 2014年11月15日(土)22時47分

読書日誌その23

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三陸海岸大津波
著者:吉村 昭
出版社:文藝春秋 (2004/3/12)

 死亡8277人、安否不明18245人。3月20日現在の東北関東大震災の被災者数である。亡くなられた方々に心から哀悼の意を表する。加えて、直接の難を免れたものの、避難生活を余儀なくされている30万人を超える方々にお見舞いを申し上げたい。
 地震発生から10日になってやっと全貌が把握できるほどの甚大な被害であり、まさかこの現代にここまでの自然災害が起ころうとは、想像することもできなかった。
 明治29年と昭和8年に三陸海岸を襲った大津波が引き起こした惨禍を吉村昭はこの小冊子に簡潔かつ鮮明にまとめあげた。これを読んだとき私は、それぞれに明治の文明勃興期であったり、昭和の軍国主義期であったりで、自然災害に対する現代的備えを欠いていた時代だから起こった悲惨な事故であり、現代の技術を以てすれば防ぎ得るものであると短絡的に想像をしていた。
 実際に、例えば宮古市の田老地区では高さ10mを超える防潮堤を築いていたし、それで昭和35年のチリ地震による津波の被害は食い止め得たのである。しかし、今回の津波の規模はそれを超えるものであった。いくら科学技術が進歩しようとも、それを超える自然災害は起こりうるものであることを改めて思い知らされ、しばらく私は虚無的な感情を催さざるを得なかった。
 被災地から遠い奈良にいるので虚無的などと言っていられるが、被災者の方々ならびに救援・復興に当たっている方々はそれどころではないであろう。苦衷をお察し申し上げるとともに、後日微力ながら力添えを申し上げたいと思う。


  • 2011年03月21日(月)13時56分

読書日誌その22

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Life
著者:Keith Richards, James Fox
出版社:Little, Brown and Company (2010/10/26)

 ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが以前から自伝の執筆に取りかかっているとは聞いていた。しっかりしたライターもついたのだが、途中で本人が自分の半生を思い出せなくなっているらしいというキースらしい噂も流れて来て、本当に完成するのか当てにしなくなっていたところに、昨年10月にやっと出版された。
 相棒のミック・ジャガーのインタビューはいつもdiplomaticな受け答えで、読んでいても途中で投げ出してしまうのと好対照に、キース・リチャーズという人はサービス精神旺盛なようで、インタビューを読んでいてもいろいろ小話が挟まっていて、なかなか面白い。だからこの自伝もキースファンである私には面白く読めた。
 現在日本語版の翻訳中という話だが、しかしながらその翻訳者には同情申し上げる。キース特有の分かりにくい英語がそのままに書かれている部分が多く、確かに本人がしゃべっている雰囲気が出ているのだが、はっきり言ってわかりにくい英語である。ストーンズファンでもない翻訳者だったら、翻訳は相当に苦痛であろう。
 ところで、内容の方を一言でまとめてしまうと、若いうちに一発当てたギタリストが有り余る印税で贅沢三昧、ドラッグで破滅しそうになってもなんとかうまく切り抜けて、今は悠々自適です、ということになってしまう。いくらファンであっても少々しらけてしまう話なのだが、それでもこの自伝は魅力的である。それは例えば"People say 'why don't you give it up?' I don't think they quite understand. I'm not doing it just for the money, or for you. I'm doing it for me."なんていう台詞を気取りも気負いもなく吐けるのは、もうこの人ぐらいかも知れないからである。確かにキース・リチャーズは、純粋性に対する幻想を未だに抱かせてくれる数少ない才能の一人である。


  • 2011年01月23日(日)17時04分

読書日誌その21

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言葉の煎じ薬
著者:呉 智英
出版社:双葉社 (2010/6/16)

 少し前までは年末のテレビと言えばやたらと忠臣蔵が多くて、一日に何回も討ち入りを見ていた時期もあったような気がするが、最近ではめっきり少なくなった。忠臣蔵ではあまり視聴率が取れなくなったというだけの理由だろうが、昨年末には一本だけ2時間ものでドラマが放送されていた。
 内蔵助役は田村正和で、何だかミスキャストの感が拭えなかった。田村正和は昔のテレビでやってた「赤穂浪士」の堀田隼人役がニヒルではまっていたし、そういえばその時の内蔵助は錦之介で、やっぱり貫禄あったなあとつい思い出してしまった。
 しかし今回の忠臣蔵を見ていて一番気になったのは、時代劇としての出来映えではなく、脚本の中の些細な間違いである。台詞の中に「須く」という言葉が2回出て来たが、2回とも「全て」を強めるような意味で使われていて、「須く」本来の命令や義務の意味合いは失われていた。
 些細な間違いであり、重箱の隅をつついていると言われればそれまでであるが、しかし重大な問題を孕んでいるような気がする。「須く」とかけば「〜べし」で終わらねばならないという常識を失って、なんとなく「全て」を「須く」と書けば時代劇っぽい、ぐらいの感覚で書いている脚本という見方は穿ち過ぎであろうか。
 ところで「須く」「〜べし」論と言えば呉智英であろう。昨年夏に出た最新刊でも冒頭に取り上げられている。著者のほぼ20年以前からの主張であり、相変わらずだなあと思うのだが、それにしても「須く」を「全て」の最上級ぐらいの意味で使う間違いが未だに世上横行しているのには驚きを禁じ得ない。呉智英の著書はあまり読まれていないのだろうか。彼の一連の日本語論は語源に立ち返った言葉の正しい使い方を述べ、文章が短く良くまとめられていて読みやすいのだが。
 久しぶりの更新だが、人の脚本のあら探しで愚痴っぽくなってしまった。今年はもう少し思考を前向きにして行きたいと思う。


  • 2011年01月10日(月)12時06分

読書日誌その20

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マンチュリアン・リポート
著者:浅田 次郎
出版社:講談社 (2010/9/17)

 「蒼穹の昴」から続く一連の清朝末期ものの最新作で浅田次郎が描いたのは張作霖爆殺事件の内幕である。「蒼穹の昴」があまりにもよくできていたためであろうが、巷間本作の評はあまり芳しいとは言えない。また、この事件を取り上げた著作はあまりにも多く、今更斬新な真相説を打ち上げるのは不可能であり、全体として新味に欠けるのは致し方のないところであろう。
 しかし、少なくとも私は、浅田次郎の小説に深い歴史的考察も文学的思索も求めてはいない。この小説家の採るべきところは、台詞回しの巧さだと思う。極論すれば台詞の部分だけを読んで、地の文は読まなくてもよいぐらいではないだろうか。
 「蒼穹の昴」ならば白太太のお告げ、「きんぴか」ならばピスケンの啖呵、「天切り松闇語り」では松蔵の説教。いずれも言葉の響きがあまりに心地よくて、その部分だけ何度も読み返してしまうほどである。
 どこぞの青白い学者がまとめた、日本語を声に出して読むとかなんとかいう本には収録されないであろうが、浅田小説の登場人物の台詞は磨き抜かれた日本語の一つであろうと思う。 


  • 2010年10月12日(火)21時36分

読書日誌その19

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腰痛はアタマで治す
著者:伊藤 和磨
出版社:集英社 (2010/8/17)

 整形外科医にとって腰痛の治療は最も日常的であり、かつ最も難しい問題の一つである。何が難しいといって、まずその多彩さを挙げねばならない。勤務医時代を含めて20年近く整形外科の外来診療をしているが、腰痛を訴える患者さんの病歴・病状・生活背景そして治癒過程はまことに千差万別で、1例として前と同じであると思えたことがない。
 そしてパターン化が難しいということは、必然的に、画一的原因を求めるのが困難だということになる。この辺りがよく新聞で「腰痛の原因の大部分が不明である」とされる所以であろう。
 もう一つ、腰痛の原因が実は重病という可能性がある。近頃話題の脊柱管狭窄症程度ならばまだよいが、化膿性脊椎炎や転移性腫瘍を見逃すと大ごとになる。
 したがって、本音を白状すると、「どんな腰痛でもたちどころに解決」しようなどということはまず不可能であり、失われた聖杯を求めるのにも等しいとまで思われるのだ。
 ところで最近上梓された本書ではほとんどの腰痛は姿勢のクセや頭の位置によるものであり、それを正せば自然に腰痛は軽減するのだと述べている。医者は腰ばかり見て全体を見ようとしないとか、すぐに手術を勧めるとか、整形外科医には耳の痛い話も多いが、たしかにお説ごもっともであり、好評を持って迎えられてよい本だと思う。
 ただ、この手の腰痛マニュアル本にはいつも一抹の違和感を感じざるを得ない。それは腰痛というものに対する扱いが無邪気なまでに画一的な点である。とにかく曲がった腰を伸ばして姿勢を正すこと、と勧めているが、脊柱管狭窄症の患者さんは腰を無理に反らすと神経圧迫を起こして下肢症状が悪化するし、圧迫骨折の患者さんも曲がった腰を無理に矯正すると腰痛が悪化する。
 やたらと姿勢を正すのがよいかどうかは患者さんによりけりということになる。やはり腰痛には画一的解決などは存在せず、医者は千差万別の腰痛患者さんと向き合って、その解決方法を一人一人について考えねばならないのだろう。 


  • 2010年09月23日(木)21時04分

読書日誌その18

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これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
著者:マイケル・サンデル 翻訳:鬼澤 忍
出版社:早川書房 (2010/5/22)

 ベストセラーについて書くのは苦手である。今時ネットを探せばベストセラーの書評なんてあちこちにありふれているし、だいたいベストセラーというものは1年後には誰も取りざたしなくなって、ブックオフに山積みになっているのがオチだからである。それでもこの本は手に取ってしまった。まず装丁がeye-catchingだし、ハーバードで大人気の講義の記録という宣伝文句も強力である。
 内容もよく練られていて、考えるためのとっかかりになる例え話でぐっと読者を引きつける。落語で言うならマクラに相当するが、話は深刻で、例えば「難破された者が生き残るために救命ボートの定員を減らすよう、殺人を起こしてもいいのか?」 とくる。深く考えれば考えるほど、判断の「正しさ」というものに対する日常的な感覚が如何に素朴で浅薄であるかを思い知らされるようになっている。
 然り、「正しさ」「正義」というものに普遍的な定義などあるはずもない。突き詰めて行くと、一人の人間がある行為を選択する時に拠り所にするのは、何らかの倫理的絶対的基準ではなく、その行為によってもたらされるメリットの総和とデメリットの総和のどちらが大きいかということでしかないであろう。
 そのような功利主義に従えば、著者が東大の特別講義で取り上げた「有名野球選手の年棒は数十億円だが、これは正しいのか?」という問題も、その選手のプレーを喜んで見に行く人がいて、そのチームの試合をテレビで見る人がいて、さらには放送のCM料を出す企業がある限り、需要と供給の原理によって決定されるその選手の年棒に異議を挟む余地はないのだと思う。
 しかし、「正しさ」というものについて、また別の判断基準があるものと私は信じたい。言葉にするのは難しいのだが、「粋」とでも言おうか、本書で展開される論理とは対局にある判断基準であり、非論理的あるいは直感的基準である。善悪については、とことん煎じ詰めると、そのような基準でしか割り切れないものもあると思うのだ。
 村上ファンドの社長は逮捕されて「お金儲け、悪いことですか?」とテレビカメラの前で開き直った。なるほど功利主義に従えば彼は何も悪いことをしていないのかも知れない。ただ、その感性は無粋であり、世間の受け容れるところとはならなかったのだ。


  • 2010年09月14日(火)08時24分

読書日誌その17

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百代の過客 日記にみる日本人
著者:ドナルド・キーン 翻訳:金関寿夫
出版社: 朝日新聞社 (1984/07)

 欧米の日本文学研究と言えば、古くはウェイリーの源氏物語訳とサイデンステッカーの川端康成作品訳がその代表であるが、現在存命の人となると、やはりドナルド・キーンの一連の著作であろう。最近では渡辺華山の伝記が面白かった。
 百代の過客が朝日新聞に連載されていたのは20年以上前になる。日記という文学形態に限って日本文学史を通覧しようとした狙いがまずもって面白い。そして土佐日記や奥の細道といった有名どころはもちろん、日本人であるこちらが聞いたこともないような古い日記が取り上げられている。
 ドナルド・キーンという人をその時初めて知った私は、日本の名もない古日記を欧米人が読み込んでいること、そしてそれらの深奥に達するような論評を加えていることに驚いた。思えば昔の新聞の文章のレベルは高かった。
 日記というものは単に備忘録として日常雑事を書き留めておくべきか、あるいは自分の心象を深く刻んで文章を研ぎすますべきか。また、あくまで読むのは自分のみであるとすべきか、他者の眼を意識しつつ書き進めるべきものか。日本人の日記はいずれも後者に属するものが多いと思うのだが、そう言う私の日記は純粋に備忘録であり、自分の死んだ後は破棄すべきものであると考えている。


  • 2010年08月14日(土)23時17分

文献所感その5

Effect of calcium supplements on risk of myocardial infarction and cardiovascular events: meta-analysis.
Bolland MJ et al.
BMJ. 2010 Jul 29;341:c3691.

 本論文の結論は、カルシウムのサプリメントを摂りすぎると心筋梗塞の危険性が30%ほど増すということである。骨粗鬆症へのお手軽な対処としてカルシウムサプリメントを使っている人には、いささかショッキングなデータであろう。
 骨粗鬆症になればカルシウム補給はもちろん必要なのだが、カルシウムだけを摂りすぎると血管の壁にカルシウムが付着して、そのため血管が詰まりやすくなるというのだから、誠に皮肉なものである。しかし、医療の現場では「あちらを立てればこちらが立たず」という状況が生じるのは実はよくあることであって、その他でも、例えば糖尿病の患者さんが、血糖値を下げるには歩くことですと内科の先生に言われて、意気込んで歩いたら膝を痛めたというのも整形外科では日常的に聞く話である。
 考えてみれば人間の身体の一部分だけを捉えて診断なり治療なり進めても、全体としてのバランスが狂えばうまくいかないのは当たり前かも知れない。もっとも人間の身体全体となると、あまりにもシステムとして複雑であり、それを全体として把握するのは現実的には不可能と言わざるを得ないのだが。
 カルシウムの補給について、日常の診療で患者さんに質問されると、サプリメントは要らない、バランスよい食事を適量に摂ればそれでよい、あるいはコレステロール値が高いのでなければ、牛乳を飲むのが一番よい、と答えてきた。それでも骨粗鬆症の進行が止められないならば、本格的な薬物治療を要するので、やはりサプリメントの出番なぞない、と思うのである。
 ところで話は変わるが、骨粗鬆症のことを「こっそ」とか「こつそ」とか略して言う人に最近時々出会うようになった。骨が「粗」くて「鬆」が入っている状態だから骨粗鬆症というので、粗と鬆の間で切ると意味が通らないのだが、こんなことに違和感を持つのは私だけだろうか。


  • 2010年08月03日(火)08時53分
 
 
 
 
 
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